日本の戦国時代、動員された兵士の数が最も多かった戦いは、どの戦いだったのか?調べてみました。

「歴史人 2016年6月号」によると以下の順位となっています。

1位 大坂冬の陣 総勢29万2000人
徳川軍:19万5000、豊臣軍:9万7000

2位 九頭竜川の戦い 総勢22万人
朝倉軍:2万、北陸一向一揆:20万

3位 大坂夏の陣 総勢 21万人
徳川軍:15万5000、豊臣軍:5万5000

3位 高尾城の戦い 総勢21万人
富樫正親軍:1万、加賀一向一揆:20万

5位 関ヶ原の戦い 総勢17万1000人
東軍:8万9000、西軍:8万2000

1位・3位の大阪の陣と5位の関ヶ原の戦いの兵士の同員数が多いのは分かりますが、ちょっと驚きなのが大坂夏の陣の規模に匹敵する九頭竜川の戦いと関ヶ原の戦いよりも動員数が多かった高尾城の戦いです。

九頭竜川の戦いと高尾城の戦い、聞いたことがないという方もいるかもしれませんが、どちらも一向一揆が戦国大名と対立した戦いであったのです。

普通、徴兵して兵士を動員するとなったら恩賞を与えなければならないのですが、一向一揆は信仰心だけで自主的に合戦に参加したため大規模な兵力動員となったのです。大坂の陣と関ヶ原は、全国から集めってきての兵士の数ですが、九頭竜川の戦いの一向一揆勢は、加賀の一向宗だけでなく能登・越中の門徒も加えて20万ですので、北陸地域だけでこれだけの動員数をほこったことになります。

では、九頭竜川の戦いと高尾城の戦い、それぞれの結果はどうなったのか?

九頭竜川の戦い 永正3年(1506)8月2日~6日
北陸一向一揆勢は20万いたとされていますが、一説には30万ともされており越前に侵攻します。対する朝倉勢は朝倉宗滴を総大将に九頭竜川をはさんで対峙します。宗滴は、夜半に渡河を決行し奇襲をかけ、これが功を奏し一向宗は打ち負かされ加賀に撤退させることに成功します。

兵力差でいえば10倍近い差があったのですが、軍勢が多いからといって優勢になるとは限らず、一向一揆勢は所詮烏合の衆です。些細なことをきっかけに総崩れとなり、数的有利であったにもかかわらず敗退しています。

高尾城の戦い 長享2年(1488)6月5日~9日
富樫正親1万余に対し、加賀一向一揆勢は20万です。兵力差20倍なので九頭竜川の戦いよりも差が大きいです。正親の立てこもる高尾城は、20倍の大軍で高取り囲まれ、援軍も一向一揆勢に阻まれ、高尾城は落城。政親は自害しています。